空想測量と地図という表現

空想世界の理想と現実
完全な空想ということは、理想を描くことも可能と思われるかも知れません。
しかし、地図は理想ではなく現実を映します。設計図、都市計画図や模型、絵コンテ、その他の計画は、いわば理想を形にしたものですが、それを完全な形で現実化することは大変難しいことです。

なにより、理想は衝突します。土地の値段が上がって、利する人と損を被る人といます。これだけ単純な事象でも利害が対立するように、あらゆることで利害が対立します。実際、一人の理想を体現できる都市は、いまや独裁国家くらいではないでしょうか。

全員がひとつの理想を共有することは、もはや現実的ではありません。複数の異なる理想が共存し、絶えず折り合いをつけながら現実が作られていきます。その利害の衝突が地図に現れます。開通しない幹線道路、工場の切り売り、ニュータウンの謎の空き地、地域によってあらゆる偏りのある現状・・・こうした異なる理想や現実が対峙するシーンは、世界の全体像を掴むための断片でもあります。

ここでの空想都市中村市は、絶えずこうした、それぞれの理想や現実の対峙のシーンに着目し、描いています。

空想測量人として
描き手である私は世界の創造主でも、市長でも、運輸・流通会社の社長でもありません。描き手はこの都市に対する権力を持たず、つまり私の都合の良いようには作られていません。私は、現実世界で市長や社長という重責を担いたくない、器に合わない、と思っていますが、それはこの世界でも同様です。

現実世界での細かな動きの断片をつかみ、あらゆる情報に地理情報を加えて地図上で組み立てて整理するのと同様、単にこの空想世界で起こっていることを、観察ではなく「空想」して、同様のことをしています。測量も実地ではできないので、現実にありそうな世界を空想して測量する、いわば空想測量を行っているまでです。

地図は表現方法のひとつ
たとえば文章は、事実を伝える報告書や論文、記事の他に小説等の表現手法にもなります。写真も同様に、証明写真の用途もあれば、写真家が撮るような、作品としての表現手法にもなります。地図も同様に、市販の地図の他にも、地図化することはひとつの表現でもあります。

地図という表現の特徴
文章や写真の他、世界を描くための表現はどんなものがあるでしょうか。映画、演劇、絵画、彫刻、ダンス・・・といったところでしょうか。これらは主人公と脇役、背景、切り取るシーンを表現者が選びます。つまり、その世界の中でも描かれる人と描かれない人を選別します。その構図の切り取り方こそが、表現者の腕の見せどころでもあるでしょう。

しかし、地図は、対象を選別することができません。地図の構図、つまり地図の描画地域を切り取ることはできますが、それは物語に置き換えれば大枠の「どこを舞台にするか」の選択の部分です。その領域を描くとなったら、例えば団地だけを詳しく描く、並木道だけを描くことは地図の図法としてはNGで、全てを対等に、均等に、同じ縮尺で描く必要があります。

万人、万物を均等に描いた絵
小説や映画のように、世界を読み解く順路が規定されているものと異なり、その順番を規定しません。このことで、ある程度地図リテラシーがないと、地図を読むのが難しくなっているのは少々残念なことです。とはいえ、そこにはあらゆる人のあらゆる生活があり、いわば幾多ものストーリーが詰まっています。そして、特定の誰かだけをもてはやすことなく、誰もが均等に描かれています。

地図はいわば、万人、万物を均等に描いた絵なのです。